大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第一小法廷 昭和58年(行ツ)76号 判決

上告人

高橋正亮

(ほか九名)

右一〇名訴訟代理人弁護士

前野宗俊

臼井俊紀

吉野高幸

高木健康

中尾晴一

住田定夫

配川寿好

横光幸雄

尾崎英弥

三浦久

被上告人

北九州市長 末吉興一

右当事者間の福岡高等裁判所昭和五二年(行コ)第二三号、第二四号懲戒処分取消請求事件について、同裁判所が昭和五八年三月一六日言い渡した判決に対し、上告人らから全部破棄を求める旨の上告の申立があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人前野宗俊、同臼井俊紀、同吉野高幸、同高木健康、同中尾晴一、同住田定夫、同配川寿好、同横光幸雄、同尾崎英弥、同三浦久の上告理由第一点及び第二点について

原審の適法に確定した事実関係は、おおむね次のとおりである。

1  上告人山村昭及び同一柳治雄を除く上告人らは、いずれも、北九州市清掃事業局の各清掃事務所又は清掃工場に勤務する、地方公務員法五七条所定の単純な労務に雇用される職員(以下「単純労務職員」という。)であって、自治労北九州市職員労働組合(以下「市職労」という。)、自治労北九州市現業評議会の組合員であった。

2  北九州市は昭和三八年に旧五市の合併により設置されたが、合併前の旧五市における単純労務職員の年末年始の勤務については、それぞれの条例において「勤務を要しない日」あるいは「特別休暇」と定められていたなど、その取扱いに差異があった。北九州市は、合併後の単純労務職員の就業に関する事項について、市職労との折衝を重ねたうえ、昭和三九年五月二五日規則第九六号をもって北九州市労務職員就業規則(以下「本件規則」という。)を制定した。本件規則の一三条一項には、日曜日は勤務を要しない日とする旨が、その一四条一、二項には、単純労務職員の休日は、国民の祝日に関する法律に規定する日並びに一月二日、同月三日、一二月二九日、同月三〇日及び同月三一日とし、市長は、業務の都合により特に必要な場合は、単純労務職員に対し、休日に勤務することを命ずることができる旨が規定されている。

3  北九州市においては、従来、年末に排出される多量のごみを処理するため、毎年、年末休日の勤務日数・時間数、休日勤務手当加算額等の労働条件について市当局と市職労とが団体交渉によって合意し、かつ各作業員の都合をきいたうえ勤務命令を発するという方法によって、円滑に年末清掃作業を実施してきた。ところが、昭和四四年の年末清掃作業に係る労働条件については、市当局と市職労とが団体交渉を続けてきたが、合意をみるに至らず、同年一二月一三日団体交渉はいったん打ち切られた。そこで、市職労は、同月一七日、傘下の清掃関係職員に対し同月二九日から同月三一日までの休日(以下「本件年末休日」という。)には出勤をしないよう闘争指令を発した。これに対し、被上告人は、右のような休日出勤拒否の事態となれば市民生活に多大の影響が及ぶものと予想して、同月二五日清掃関係職員各人に対し、本件年末休日につき勤務を命ずる勤務命令書を交付した。

4  いったん打ち切られた市当局と市職労との団体交渉は、福岡県地方労働委員会の勧告により再開されたものの、結局、年末になっても両者の意見は一致せず、本件年末休日の間、各清掃事務所及び清掃工場の清掃関係職員約一四四五名のうちの七割強が、前記の本件年末休日勤務拒否指令に従って出勤しなかった。

原審は、右事実関係のもとにおいて、(1) 本件規則は、北九州市の単純労務職員に対し効力を有する、(2) 本件規則一四条一項にいう「休日」につき、被上告人は、同条二項に基づき、単純労務職員に対し、その同意を得ることなく勤務を命ずることができる、(3) 本件の年末清掃作業については、本件規則一四条二項に定める「業務の都合により特に必要な場合」に当たると認められる、(4) したがって、上告人山村昭及び同一柳治雄を除く上告人らは本件年末休日につき勤務義務を負っていた、と判断した。原審の右判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。右違法があることを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。論旨は、ひっきょう、独自の見解に立って原判決を論難するものであって、採用することができない。

同第三点について

地方公営企業職員につき争議行為を禁止した地方公営企業労働関係法一一条一項の規定が、同法附則四項により地方公営企業職員以外の単純労務職員に準用される場合を含めて、憲法二八条に違反するものでないことは、当裁判所昭和四四年(あ)第二五七一号同五二年五月四日大法廷判決(刑集三一巻三号一八二頁)の趣旨に徴して明らかである(当裁判所昭和五六年(行ツ)第三七号同六三年一二月八日第一小法廷判決、昭和五七年(行ツ)第一三一号同六三年一二月九日第二小法廷判決参照)。原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 四ツ谷巖 裁判官 角田禮次郎 裁判官 大内恒夫 裁判官 佐藤哲郎 裁判官 大堀誠一)

上告理由

第一点 法内超過労働・法定外休日労働義務に関する判断の法令違反

第一、問題の所在

原判決は、法外超過労働・法定内休日労働については、個々の労働者の同意が必要であると解しながら「法内超過労働、法定外休日労働の場合には、就業規則ないし協約で残業義務、或は法定外休日労働の義務づけ規定を設けても同法三二条、三五条違反とはならず、労働条件の基準となりうるものと解される。そして法内超過労働、法定外休日労働について就業規則ないし労働協約において、日時、労働内容、労働すべき者が具体的に定まっている場合には、命令権者の休日出勤命令を待つまでもなくそのとおりの休日労働義務が生じるが、概括的一般的な労働義務が定められているに過ぎぬときは、命令権者の出勤命令によって法内超過労働、法定外休日労働義務が具体化するというべきである。もっとも、かかる一般的概括的な法内超過労働法定外休日労働規定がある場合に個々の労働者の義務を全面的に肯定すれば事実上所定労働時間制の建前を崩し恒常的な超過労働、法定外休日労働を容認する結果となり同法一五条の労働条件明示義務違反の疑問も生じる。したがってこのような場合には労働者にも法内超過労働、法定外休日労働を拒否しうる場合のあることは承認さるべきであるが労働者が法内超過労働、法定外休日労働を免れるためには出勤命令を受けた後、右労働を拒否しうべき正当事由の存在について当局に告知することが必要であると解すべきである。そしていかなる場合に労働者の拒否が正当とされるかは、基本的には、超過労働、法定外休日労働を命じた当局側の必要性と労働者の拒否事由の合理性との利益衡量によって判断すべきものと考える」と判断した。

しかし、右判断は、憲法および労基法等の定める労働時間の法制度に違反するものである。

以下、その理由を述べる。

第二、休日の権利性

一、休日制度の意義

休憩、休日、休暇は、いずれも「労働」に付随しておこる現象であり、しかし労働の主体である人間が自らの労働力を再生産していくために欠くことのできない「休息」の形態である。

休息という制度は、人間が継続的な雇傭労働に服している、という事実から要請される。雇傭労働つまり、他人の管理の下で働くという体制の下では、使用者が労働すなわち労働時間を管理しているのであるから、労働者は就労時間中に気ままに休憩したり、自分のペースだけで好きな日に休日や休暇をとったりすることはできない。労働者がいったん就業すると、それは一定の規律の下で毎日繰り返し継続して行われるというのが雇傭労働の一つの特質である。そして労働の継続は疲労と私生活上の渋滞を招く。ここに他人による生活時間の管理を受ける継続的な雇傭労働を「休息」によって中断し、その間は、労働から心身ともに解放して自己自身の生活に立戻らせるという休息制度の必要性がある。

休日は、休息のうち労働者が労働義務をはじめとして使用者の一切の拘束から解放される日である。いずれにせよそれは必ずしも「賃金を払われない日」であるとは限らない。賃金を支払われるかどうかは「休日」の定義の要素ではない。休日に賃金が支払われるかどうかは就業規則等で別に定められるものである。通常の賃金体系では休日を労働しない日として賃金が支給されないこととなっているが、このことから直ちに休日に法律上当然に無給という原則が生じるわけでもないし、又、賃金が支払われたからといってそれが休日であることを否定されるわけでもない。

休日に関する規制は労働日における労働時間の規制とともに早くから労働保護法のなかにあらわれていたが、現在、ILO条約や諸外国の法制は、ほぼ例外なく週を単位とする休日制、すなわち週休制を採用しており、わが国も労基法の制定によりこの週休制の原則を導入したのである。

労基法によれば、「使用者は、労働者に対して、毎週少くとも一回の休日を与えなければならない」(三五条)。すなわち、使用者は、毎週(日曜日から土曜日までの暦週ごとに)少なくとも一回、まる一日(午前〇時から二四時までの暦日一日)の休日を労働者に与えなければならない。単に継続二四時間の休務を保障するのみでは、休日を与えたことにはならない(もっとも、後に交替制のところで述べるように、交替制のもとでは暦日一日の休日ではなく継続二四時間の休務を保障すれば足るとする取扱いがなされる場合がある)。また、使用者は、休日の使い方について労働者に完全な自由を保障しなければならない。たとえば、労働者を社内行事に義務的に参加させたり、寄宿舎に居住する労働者に寄宿舎管理上の制約以外の制約を課した場合には、休日を与えたことにはならないのである。

このような週休制原則による休日制度を採用した意義は、一週間のうちにまとまった一日の休日を保障することにより、継続した労働から労働者を解放し、その疲労の回復をはかるとともに、通常の活動時間を使用者に提出してしまっている労働者に、使用者の拘束から解放され市民としての社会的・文化的生活のために使用しうる日を確保できるようにし、労働者に人間らしい生活を保障しようとすることにある。

すなわち、休日制度は労働力の維持、培養の為に使用者により恩恵的に与えられたものではなく、労働者の人たるに値する生活を保障する為に存在する制度なのである。

憲法は、二五条において生存権の規定を設けた。

そして、憲法二七条二項は、二五条の規定を労使関係の場で実現させる為に勤労条件法定主義を定め、かつ賃金や就業時間と並んで特に休息を明示しているのである。

そして、これを受けて労基法は罰則付で休息を含まれる休日制度についても法定しているのである。

このことは、休日制度が単に使用者から恩恵的に付与されるものではなく、労働者の生存権に立脚した権利として実定法上も規定されていることを意味している。

二、余暇権としての休日

(一) 余暇権思想の背景

第二次大戦後、日本の民主化政策の展開、従属労働の解放、社会的な運動の発展とともに労働者大衆の自由・平等に対する権利意識は急速に高まってきた。

こうした中で、昭和三五年頃からいわゆる高度経済成長政策の急速な展開は社会に様々な社会的なひずみを生み出し、そのひずみに対して家庭の主婦までも含めた広汎な国民各層の社会的運動が展開されていった。

この運動の高揚は、国民の中心を形成する労働者の意識にも変化をもたらし人間としての自由感、人間としての平等感が確立していった。

この意識の変化は、資本制労働の下での疎外された労働に対しても向けられ人間らしく働きたい、人間らしく生きたいという、いわゆる生きがい論が次第に形成されてきた。

一つの方向としては労働過程そのものを疎外されたそれから人間に値する主体性の生かされるそれに改変してゆこうとする要求であった。

これは労務管理のあり方にも反映し、従来のテーラーシステムないし、その延長にある方式の労働から小集団管理に代表されるような労働意欲をもたせる労働への転換が進行していった。

他の一つの方向は、週休二日制の実施要求で代表される疎外された労働時間そのものの短縮の要求であった。

そして特徴的なことは、この時短要求が健康管理を中心としたものから労働者の社会生活の中で、生きがいのある生活、社会的文化的生活を十分に営みたいという欲求を中心としたものへ変遷してきたことである。

このことは、逆に言えば休日等が単なる休息の為ではなく積極的な活動を伴なう余暇の為に必要不可欠であるという意識の変遷をもたらし強い要求として現われてきたこと意味する。

こうした労働者の余暇の確保・拡大の要求は、国際的な余暇拡大の潮流と、わが国の労働者の働きすぎ等に対する非難と相俟って、労働者のみならず使用者を含めた国民各層の社会的承認を受けるに至り、労働者は休息をとり、余暇を積極的に利用する権利があるという余暇権思想=規範意識が定着してきたのである。そして、行政当局も時短、週休二日制実施、恒常的な時間外労働の排除等の強力な行政指導を推進してきたのである。

(二) 余暇権の内容

〈1〉 基本権としての休息権

労働基準法自体にも余暇の思想が含まれていると解釈すべきである。一日八時間、週四八時間制や週休一日制は今日の意識では余暇意識と結びつくともいえまいが、年次有給休暇制度はその趣旨の如く、あるシーズンに連続した幾日かを(三九条の規定の水準は低いが、それでもなお)旅行かスポーツに出かけるように利用されるならば、余暇の意味をもつといえる。だが現実に機能しているかぎりでは、年休制度も必ずしも余暇意識と結びついていたともいえなかった。近来、余暇の考え方がレジャーブームの形で出て来てから、青年労働者――勤続が短いから休暇日数も少ない――によって、年休制度の趣旨が生かされている。

労基法の労働時間・休日・休暇の制度は、憲法二七条二項「賃金・就業時間・休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。」とあるのに照応していることはいうまでもない。

ところで、憲法二七条は休息についての基準の法定を命じているが、休息権を保障すると直接には明記していない。ソ同盟憲法(一九三六年)は「ソ同盟の市民は休息の権利を有する」(一九条一項)と規定し、イタリヤ共和国憲法(一九四七年)は「労働者は毎週の休息および有給の年次休暇に対する権利を有する。」(三六条三項前段)としている。もとより、わが国においても、労基法に基づく週休制等によって休息権は保障せられている。だが、基本的人権として休息権の保障があると解すべきかどうか、少なくとも直接にそれを示す文言はない。

しかし、たとえば労働時間中疲労がはげしいから休息する――残業中など起る可能性が多い――という場合に、労働者は使用者から労働規律違反等の責を問われるものだろうか。今日の法意識はそれを肯認しない。使用者に一定の受忍を要求しうる意味で権利としての休息権を承認すべきである。これは憲法二七条一項の労働権を二五条一項の示す生存権的理念に照して解釈し、その一環として休息権を位置づけることによって可能であり、又、一三条一項の「個人の尊重」の原理から導かれる基本権として休息権をとらえることも可能である。かくして休息権は基本的人権として憲法によって保障されていると考えられるのである。

〈2〉 余暇権の法理

余暇は休息の意味をもつ。ただ、今日では、精神的休息が重視される関係で、休息は自主的に支配できる自由時間が余暇を意識しうる程度にならないでは休息にならない。しかもその余暇は何らかの活動を伴うことによって、精神的休息を実現する。そうなると、余暇は積極的意味をもった人間の活動を可能にするわけで労働条件たるに止まらず、実存的条件となって来る。余暇のある生活をおくる権利の思想が国際的になり、わが国にも定着したことは前述したとおりである。

余暇生活権ないし余暇権ともいうべき権利があるとすると、それは必然的に余暇活動の自由を不可欠の要素とすると解せざるをえまい。この余暇権は、市民的自由一般に帰するのでなく、権利の性格としては、休息権を契機として含むのみならず、人間の尊厳に値する生存の原理に内在する生存権的要請からも規範論理的に導出せられるものと解すべきである。もっとも具体的に使用者に対し余暇施設の設置請求権が余暇権から生ずると解しうる状況には未だ到っていない。だが、三六協定があっても、またその下で協約や就業規則が結ばれていても、個々の労働者の合意なしには使用者は、休日労働や時間外労働に就かせることはできないという解釈(東京地裁、昭四四・五・三一、明治乳業事件判決が注目される。)も、余暇権の思想をふまえることによって積極的に位置づけられる。また会社の構内や建造物の一部を就業時間外あるいは休日に徒業員が利用することを一切禁止するような就業規則の如きは、余暇権の法理から一定の範囲において効力を否定されると解すべきであろう。つまり、使用者に対し労働者は、余暇活動のために、一定の合理的範囲において使用者の管理する現存の施設を利用する権利――使用者の受忍の義務と対応――をもつ、この権利が余暇権あるいは余暇生活権の具体的諸形態だといえるであろう。

余暇のある生活を送る権利は国家(公共団体を含む)に対する関係においては具体的な施策請求権として機能するとはいえず、その点二五条から直ちに具体的な請求権が生ぜざると同様である。けだし、それは国の立法事項・予算事項であるからである。しかし、たとえば自然破壊・環境破壊をもたらす公的機関の諸施策に対し中止を要求する住民あるいは国民の権利としては、いわゆる環境権や幸福追求の権利――余暇権とオーバラップする面が多い――と結合して余暇権を語りうるであろう。

三、小結

以上のとおり、現在の労働関係において余暇権を労働者の基本的人権としてとらえることこそが国民の規範意識に合致する。

そして、休日制度も、その休息権を契機とした余暇権の中でとらえることが必要である。

これは、休日労働義務の解釈においても考慮されねばならないのである。

第三、休日労働義務をめぐる法律論

一、上告人ら地方公務員の休日権

(一) 民間労働者と異ならない休日権

上告人らは、地方公務員の一般職であるが、いわゆる単純労務職員である。

憲法二七条二項は「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める」と規定している。これにもとづいて労働条件の最低基準を法定し、使用者にそれ以下の条件で労働者を働かせることを禁止し、労働者の保護を図ろうとするのが労働基準法である。

地方公務員についても、労基法は原則として適用されるのである(地公法五八条三項本文)。即ち、一般職にあっても、地公法二条(労働条件の労使対等決定)、二四条一項(賃金支払方法)、七五条から九三条まで(災害補償・就業規則)、一〇二条(労働基準監督官の職権)を除いて適用されることとなっている。

そして、上告人らのような単純労務職員には、地公企法三九条一項の準用により、地公法五八条三項が適用されないことになっているので、労基法は七五条から八八条を除いて全面適用されるのである。

北九州市職員の勤務時間、休日、休暇等に関する条例第六条二項によれば、一月一日、同月二日、同月三日、一二月二九日、同月三〇日および同月三一日のいわゆる年末年始は休日と定められ、原告ら所属の清掃事業局においても、北九州市労務職員就業規則一四条一項に同様の定めがなされている。

ただ、右休日に対し、休日勤務の例外規定として、同条二項があり、これらが、上告人らの休日労働を無条件に義務づけうるかが、問題となるのである。

また被上告人は、法定外休日は労働義務が存在し、職務専念義務が免除されているだけだと主張し、その根拠として地公法三五条を引用する。

しかし、何故、法定外休日に無条件に労働義務があるのかについては全く論証がない。あえていえば、法定外休日は給与の支払いがなされているというだけである。

ところで、「休日とは労働者が就労を免除される日であるが、それは必ずしも『賃金を支払われない日』であるとは限らない。賃金を支払われるかどうかは『休日』の法律上の定義をする際の要素ではない。休日に賃金が支払われるかどうかは、就業規則ないし労働契約で別に定められる。通常、日を単位とする賃金計算制度の下では、休日は労働しない日として賃金が支給されないことになっているが、このことから直ちに休日は法律上当然に無給という原則が生ずるわけではないし、また、賃金が支払われたからといって、それが『休日』であることを否定されるわけでもない」のである(労働法実務体系12「休憩・休日・休暇」七一頁)。

更に、被上告人は、本件就業規則につきその公法的性質を特段に強調し、私法的契機――個々の労働者の意思――を排除するものであると主張するかのようである。

しかし、右の議論が、如何に明治憲法的な特別権力関係論を前提にした抽象論議であるかは本件の概括的な法定外休日出勤を定めた規定の効力問題に具体的に適用すれば直ちに判明する。

即ち、被上告人の見解によると、概括的な法定外休日規定の存在→日時を定めた休日勤務命令の発出→出勤義務の発効のいずれの過程からも労働者の同意ないし拒否の私的意思が排除され、「お上(かみ)」の意思(公法)によって、いつでも休日の剥奪が容認される構造となってしまうからである。

公法的性質を持つ故に、全面的に労働者の意思が排除されるというのは、言葉のマジック的遊びでしかない。

公務員といえども、その労働者の意思を介しない労働――公務はありえない。他人を指揮し、命令して労働させる労働関係は、公法的な勤務関係といい直しても存在論的に労働者――公務員の意思を介在しているのである。労働者の意思なくして労働はありえない。憲法二八条の勤労者に公務員が含まれることは、まさにたとえ公務員であろうとも民間労働者と同様に、換言すれば公務関係の有無を問わず労働者としての意思そして人格を権利として保障したものにほかならない。

従って、本件概括的法定外休日出勤についての法理論は、公務員なるが故に民間労働者と異なるというべきものでは決してない。

むしろ、被上告人の如く就業規則の公法的法規性を主張するならば、かえって労働者に休日としての権利を付与したと考えるべきであり、その剥奪については、充分な理由と根拠を必要とするべきであり、そのような実体的な理由がない限り休日勤務命令は発出できないもしくは効力が制限されると考えるのが正しく、概括的な規定があるからといって無条件に休日勤務命令が発出発効すると考えることは身分保障的観点からの公務員の勤務条件法定主義からいって誤りといわざるをえない。

(二) 一方的職務命令によっても剥奪されない休日権

上告人らの労働法律関係の基本には、以上見てきたとおり労働基準法の適用があり、いわゆる特別権力関係にないことは明白であり、判例も認めるところである(「東京都水道局職員労働契約存在確認請求事件」東京地判昭四〇・一二・二七判例時報四三四号)。

この点について、公務員関係を特別権力関係とみて、職務命令の効力を「重大且つ明白」な瑕疵または「明白」な瑕疵を基準に判断しようとする伝統的立場がある。即ち、職務命令は、「重大且つ明白な瑕疵」ある場合を除いては、「一応適法の推定」を受け、受命公務員は、これに服従する義務を負うことになるというのである。

ところで、職務命令とは、職務上の上司が部下の公務員に対して発する、職務に関する命令であるが、この中には、行政権の行使に関し、上級行政機関が下級行政機関を指揮監督するために発する命令、すなわち訓令も含まれている。即ち、職務命令の中には、行政組織上の上級機関の有する指揮監督権に基づき、下級機関による具体的な行政権限の行使を統制することを目的として発せられる訓令と、被傭者である公務員に対する労働指揮権の行使を目的として公務員関係に基礎を置いて発せられる職務命令とがあることになる。

前記、伝統的立場は、右に述べた訓令と職務命令との区別が等閑視され、訓令に対する服従義務を媒介とする議論が大きな比重を占めた結果導き出されたものに他ならない。

例えば、私企業は、企業の自己責任において経営され、私的自治の原則が支配するから、犯罪や不法行為に該当しない限り、経営者がどのような経営方針をとり、どのように日常義務を処理しようと、それは全く企業の自由である。従って、その範囲内では、労働契約や労働関係を規律する法規に違反しない限り、どのような業務命令を発しても、違法の問題を生ずることがない(犯罪や不法行為を命ずることは、労働力処分権の範囲外のことであるから、もとより無効である)。

しかるに、公行政にあっては、これに対する民主的統制を目的とする「法律による行政」の原則が支配する訓令の違法が問題となるのはこの側面なのであって、これをどう解決するかは、労働法上の問題ではない。例えば、許可権限をもつ下級行政庁に対し、上級行政庁が、特定の申請を拒否すべきことを指令し、それが、正しい法の適用としては違法であるとしても、この指令(訓令)は、受命公務員に対する関係においては、労働力処分権の範囲内の命令なのであるから、職務命令としては違法の問題を生ずるものではないであろう。それは丁度、私企業の経営者が、業務担当者に対し、特定の取引先との取引を拒否すべきことを命ずるのと同じことで、このような場合には、その命令が、違法だとか無効だとかの問題は生じ得ない。右設例の訓令が、職務命令としては違法ではないというのは、これと同じ場合だからである。

このようにして、公務員関係を特別権力関係として理解することには正当な理由がなく、公務員が、上司の指揮命令に服して公務に従事しなければならないのは、労働者が使用者の指揮命令に服して労働に従事しなければならないのと同じことで、国家権力とは関係がない。労働者が右の義務を負うのは、雇傭契約に基づき、使用者に労働力を売り渡したからであるが、公務員の場合も、本質的にはこれと異なるところはない(今村成和「職務命令に対する公務員の服従義務について」公法学研究上六六頁)。

従って、被上告人が本件就業規則に無条件に従う義務を負う如き主張をしても、上告人らは、労働基準法の定める労働時間法制の法的理論に合致した範囲でしか労働義務を負わないことは当然である。

二、法定内休日における労働義務について

労働基準法の定める最低の基準労働時間(労基法三二条一項)および基準労働日(同法三五条)を超える時間外労働、休日労働(両者を法外超過労働と呼ぶ)については、同法三六条の要件を充足してはじめて可能となる(もちろん同法三七条の割増賃金の支給が必要である)。

三六協定を締結し超過労働が可能となっても、その具体的義務が如何にして発生するかについては大きく二つに分かれている。

(一) 三六協定プラス就業規則または労働協約における義務規定によって労働義務が発生するとする立場(義務存在説)

三六協定それ自体から超過労働義務を肯定する学説・判例もあるがそれは少数であり、就業規則や労働協約上の超過労働義務規定と三六協定が合体して、はじめて個々の労働者の超過労働義務が生ずるとする見解である。超過労働義務の根拠を労働契約上の義務であるとはするものの、それを個別的合意という場合だけでなく労働協約、就業規則上の抽象的、概括的規定が存する場合においても労働契約上の義務が存在しているとみるわけである。

(二) 合意説

最近の学説・判例にあっては、右(一)の見解と異なり個々の労働者の合意があってはじめて超過労働義務ありと解する立場が有力である。これは東京地裁「明治乳業事件」(昭四四・五・三一判)の判旨で要約される如く「労基法に定める基準労働時間を超えて時間外勤務を行う義務を認める労働契約、就業規則」が「個々の労働者に時間外勤務に関する具体的義務を定めるものであるならば、その限度において労基法に違反して無効であり、また労基法所定の最低労働条件以下の労働条件を労働協約に定めることは、協約の本質に背反するばかりでなく、前示の限度において労基法違反として無効である」との立場から右(一)の立場を批判して「労働者は、労基法に定めるところに従って従属労働から解放される自由を享受する利益を保障されなければならないからである。」「ただ三六協定成立後、使用者から具体的な目的、場所などを指定して時間外勤務に服してもらいたいとの申込みがあった場合に、個々の労働者が自由な意思によって個別的に明示もしくは黙示の合意をした時は、それによって労働者の利益が害されることがないから、その場合に限り私法上の労働義務を生ずるものと解するのが相当である」というとおりである。以後、宇都宮地裁「古河鉱業事件」(昭四五・一・一〇判)、仙台地裁「七十七銀行事件」(昭四五・五・二九判)、広島地裁「広島西郵便局事件」(昭四五・七・二一判)、横浜地裁「日本金属工業事件」(昭四五・一二・二四判)、同地裁川崎支部「ゼネラル石油事件」(昭四七・三・七判)など合意説の判決が続出している。

三、法定外休日における労働義務について

法外超過労働義務を労働契約に基づいて売り渡した労働力以上に、更に労働力を売るかどうかの超過労働について合意説に立つならば、法外と法内で超過労働を区別する理由は全くない。法内および法外の区別である一日八時間労働制(労基法三二条一項)や、週休一日制(同法三五条)は、労働者保護の観点――つまり労基法が最低の労働条件を法定し、これの遵守を罰則付きで使用者に要求することによって労働者保護の目的を達成すること――からであってそれ以外の理由によるものではない。区別の違いは、法内超過労働の場合ただ使用者側について労基法上の手続義務――三六協定の締結――が免除され刑事責任の追求を受けないことにのみある。

使用者において、労基法の枠内で休日をどのように定めるかは協約がなければ自由な領域に属する事柄であるが、一旦それが協約や就業規則の上で決定されたならば、それらの効力として個々の労働契約を規律し、契約内容となる訳であるから、労働者としては、その契約内容を超えた労働力を使用者に売るか否かは全くの自由であり、休日労働義務を原則的に認めることはできないからである。

即ち、労働契約内容を超えた超過労働たる点において、法定内休日であれ、法定外休日であれ、同一であって、労働者の労働力処分権の絶対的自由という観点からは区別するいわれはないのである。

市民社会における労働者の基本的な自由は、いうまでもなく労働者自身の自由な意思によってのみ労働力を売るという自由である。それゆえにこそ強制労働が禁止されるのである。憲法一八条が強制労働を禁止し、更に労基法五条によって具体的に規定され、それに違反した使用者に対しては労基法上最高の処罰が加えられる(労基法一一七条)。強制労働が市民社会における労働者の基本的自由である自由な意思によってのみ労働力を売る自由を侵害するものだからである。法内法外を問わず超過労働の場合も同様に、労働契約に基づいて売り渡した労働力以上に労働力を売るか否かの問題であるから、右の労働者の基本的自由に基づいて労働者の自由な意思――個別的合意――によってのみ決せられるべきである。

四、判例理論

(一) 「毎日新聞社学生アルバイト懲戒解雇事件」(東京地決昭四三・三・二判例時報五二〇号)

「労働者は、使用者に対し、労働契約によって引き受けた時間を超える労働を提供すべき義務のないのが原則であり、使用者としては、労働者に一日実働八時間まで労働させようとする場合には、当該労働者と個々に時間外労働に関する契約をする必要がある。勿論、この契約は、『時間外労働をする日時毎に個々的な契約として約することもできる。』し、或いは又、『一般的に、使用者が実働八時間までは時間外労働を命ぜることができ、その日時は、使用者において適宜指定することができる。』旨を約することも可能であろう(使用者と労働組合との間で右のような協定を結ぶことも又、可能である)。しかしながら、……時間外労働すべき日時が何月何日とか毎週何曜日とかのように労働契約等で予め特定されている場合ならともかく、単に後者のような一般的概括的時間外労働に関する約束が存在しているに過ぎないような場合に、終業時刻真際になって業務命令で時間外労働を命令し得るとなすときは、予め予定された労働者の行動計画ないし、生活設計を破壊するような不利益の受認を労働者に強いる結果となることも考えられないでもなく、労働基準法第一五条の労働条件明示の規定の趣旨とも関連して、その業務命令に絶対的な効力を認めるとすることは妥当なものであるとはいい難いから、一般的概括的時間外労働に関する約束がある場合においても、労働者は一応使用者の時間外労働の業務命令を拒否する自由を持っている。

但し、使用者が業務上緊急の必要から時間外労働を命じた場合で、労働者に就業時間後何等の予定がなく、時間外労働をしても、自己の生活に殆んど不利益を受けるような事由がないのに、時間外労働を拒否することは、いわゆる権利の濫用として許されない場合のあることは否定できない。」と判示す。

即ち、

〈1〉 超過労働義務が発生するためには、具体的個別的契約か、一般的概括的な契約が必要であり、

〈2〉 一般的概括的な契約の場合でも拒否の自由がある。

〈3〉 ただ、「業務上緊急の必要」があって、労働者に「殆んど、不利益がない」場合は、濫用となる場合があるというのである。

(二) 「函館東郵便局事件」(函館地判昭四八・三・二三、判例時報七〇三号三頁)

右判決は基本的には公法関係である(最判昭四九・七・一九)とされた郵政職員についての事案である。右判決は、超過労働の一般的法理について

「当裁判所は、労働協約によって基準労働時間より短い労働時間が定められている場合においては、その労働協約が締結されるに至った経緯、文言、体裁等に照らして別異に解すべき特段の事由がない限り、労働者は使用者に対し、その労働協約に定められている労働時間の範囲内でのみ労働すべき義務を負っているに過ぎず、右労働時間を超えて労働すべき義務は、原則として当該労働者の明示もしくは黙示の同意のない限り発生しないものとする。

けだし、労働契約とは、労働者が使用者の指揮命令に従って一定時間労働することの対価として使用者から一定の賃金を受け取ることの合意にほかならず、労働者は、使用者に対し、労働契約に定められた労働時間を超えて労働すべき義務を負担していない。したがって、使用者としては、労働契約に定められた労働時間を超えて労働させようとする場合には当該労働者と時間外労働契約を締結することを必要とする。」と説き、続いて、労働契約の態様につき、

「時間外労働契約の態様としては、大別すると、

〈1〉 時間外労働をする日時ごとに使用者と当該労働者とが個別的に契約する場合

〈2〉 あらかじめ、毎週何曜日の何時から何時までとか、毎月何日の何時から何時までというように、具体的な日時を特定して契約する場合

〈3〉 一般的総括に、使用者は労働者に対し、基準労働時間の範囲内において時間外労働を命ずることができるという内容の契約をする場合

等が考えられるところ、かかる時間外労働契約が締結されていない場合には、労働者が勝手に時間外労働をしても賃金請求権が発生しないのと同様に、使用者が一方的に時間外労働を命じても、原則として何らの労働義務も発生しないのである」

就業規則については「勤務時間の長さは、労働契約中、最も基本的な労働条件であって、元来、労使間の明確の合意によってのみ定められるべきものであるから、就業規則の定めによるとの慣習が認められない以上、一方的に定められた就業規則によって勤務時間の長さが、定まるいわれはない」とするのである。ただ、「ここ十数年に亘って時間外労働および三六協定が締結されており、かつ、年末年始の繁忙期等『やむを得ない事由』がある場合には、全逓所属職員は、相当の理由のない限り時間外勤務命令を拒否することなく、右命令に従って勤務してきた。

また……『やむを得ない事由』があるにもかかわらず郵政職員が時間外勤務命令に従わないならば、その事業の遂行に重大な支障をきたし、ひいては国民の日常生活に混乱をきたすことは明らかである。

右のような歴史的経緯ならびにその職責の重大性に鑑みると、時間外労働協約第二条に謂う『やむを得ない事由』が存在するにもかかわらず、郵政職員が法内超勤命令を拒否することは、仮に了解事項に謂う三六協定が締結されていない場合においても、右『やむを得ない事由』の重要性および緊急性の程度ならびにその拒否の理由如何によって、権利の濫用と評価されることがあり得る」とするのであった。

即ち、

〈1〉 超過労働については、労働契約が必要であり、

〈2〉 就業規則によるとの慣習がない限り、就業規則によって、超過労働義務は発生しないとする。本判決が時間外労働契約の存在を否定しながら拒否権の濫用に及んでいるのは理解できない(山本「時間短縮と法内超過労働の法理」季刊労働法八九号)が、時間外労働協約があり、それに従ってきた慣行を前提として、

〈3〉 「やむを得ない事由」の「重要性」と「緊急性」と「拒否の理由」によって拒否が濫用になりうるという。

(三) 「東洋鋼板懲戒処分無効確認請求事件控訴審判決」(広島高判昭四八・九・二五、判例時報七二四号)

右判決は、就業規則、労働協約を綜合的に判断してみると、「業務の都合上、己むを得ない場合」「労働組合と協議して合意が成立したとき」は、法定外休日労働を命じうるとの労働契約が締結されていると判示したものであって、前記(一)判決の「一般的概括的時間外労働に関する約束がある場合」の具体例であり、考え方もほぼ共通のものがある(深山「労働協約で法定外休日に関する休日労働が規定されているときの休日労働義務」判例時報七四三号一四八頁)。

以上の判例によると、超過労働義務が発生するためには、その旨の労働契約を必要とする点では共通であり、具体的態様として、就業規則については、否定((二)の判例)ないし、労働協約と合わせて((三)の判例)超過労働義務の根拠たり、その場合も(一)(二)の判例は、労働者に拒否の自由があり、ただ、「緊急性」と労働者に「不利益」がない場合、濫用になるとする。

五、小結

法定外休日については、協約や就業規則で休日労働義務を定めたとしてもそれをただちに労基法違反とはいえない。

しかし、その規定が、個々の労働契約の内容となりうるか否かは、労働条件明示義務(労基法一五条)との関係、労働者の余暇権の意義等を考慮して決せられねばならない。

休日労働義務を定める協約や就業規則が、労働条件明示義務の趣旨に反しない程度に具体的日時、労働者数、場所、業務内容等において個別的具体的であり、労働者としても、いついかなる時期に、どのような内容の休日労働を命じられるかが予想できるような体様の規定であるとすれば、労働者としては、そのような内容を含む労働時間を契約内容として承認し、労働力処分権を譲渡したのであるから、原則的に、労働力を売らない自由は喪失し、休日労働義務が発生すると解する余地がある。(但し、この場合でも、それがあくまで休日であり、労働義務が原則的に存在しないことから言えば労働者に休日労働拒否権が認められうるであろう。)

だが、通常のこの種の協約や就業規則で定められているような「業務の必要性がある時は、残業を命ずることができる」といった程度の概括的一般的な規定の場合は、その規定からただちに休日労働義務を認めることは許されない。

何故ならば、このような概括的・一般的な規定では、いついかなる時期にどのような内容の休日労働を命じられるか予じめ労働者は予測できず、労働条件明示義務の趣旨に反し、かつ労働者としても、余暇権の行使として積極的意義を有する休日を不当に奪ってしまうことになるからである。

従って協約や就業規則の概括的・一般的な休日労働義務規定は、単に休日労働をさせることがあるということを確認した規定であるに止まり、そこから休日労働義務が発生することはありえないと言わざるを得ないのである。

だから、この場合にも、法定内休日と同様に個々の労働者と使用者との個別的合意を媒介として始めて休日労働義務が発生すると解さねばならない。

また、このような概括的、一般的な休日労働義務規定の下で、特定の時期に特定の場所で、特定内容の業務についての休日労働が常態化している場合でも慣行と概括的一般的規定を合体させて休日労働義務の発生を認めることも許されない。

従来、概括的・一般的規定の下で特定の日時、場所での特定の内容の休日労働が常態的に行なわれてきていたとしても、それは前述したところから明らかなようにすべて明示又は黙示的なその都度毎の労使間の個別的合意に基礎を置くと考えねばならない。

そして、労働者はその個別的合意によって、当該特定の休日の労働力の処分権を委譲しただけのことであり将来の同じ日時、場所での特定の内容の休日労働を含めて包括的な労働力の処分権を使用者に委譲した訳ではない。

従って、常態的な特定された休日労働が行なわれていたとしても、あくまで個別的合意がその都度繰り返されたに過ぎず、そこから将来の休日労働義務を導出することは理論上許されない。

将来における休日労働義務もあくまでその都度毎の個別的合意によってしか基礎づけることは許されないのである。

もっとも、休日労働義務を生じさせる為にはどのような場合でも常に必ずその都度毎の個別的合意が必要かは若干問題である。

しかし、少くとも労働者が将来の特定の日時場所での特定の内容の労働力の処分権をも使用者に委ねたという為には労働力処分の自由が労働者の基本的絶対的自由であり、それを奪うことは憲法や労基法に違反するきわめて違法性の強い犯罪行為であることからいって、慣行といったあいまいなものではなく、明確に制度化された下で労働者が常態的に労働をしてきたというものでなければならない。(労基法に違反しない限度での慣行がそのまま、労働契約になりうることはありうるとしても、労働者に不利な慣行は厳密に解されねばならず、とりわけ、労働者の基本的自由である労働力処分権の問題については慣行はそれを奪う根拠にはなりえないといわざるをえない。)

それはとりもなおさず、協約や就業規則において、特定の日時場所、業務内容を明示した休日労働を義務づける規定を置くことに他ならない。

とすれば、少くとも協約や就業規則では概括的・一般的な休日労働義務規定を置くだけで、実態としては、特定の日時場所に特定内容の休日労働をさせてきたということから、労働者の自由を奪うことも許されないと言わざるをえないのである。

以上からして、法定外休日も法定内休日と同様個別的合意がなければ休日労働義務は発生せず、協約や就業規則の概括的・一般的休日労働義務の規定が存在しても、それは、使用者が休日労働をさせうる場合のあることを確認したという意義を有する規定に過ぎない。

第四、本件出勤命令による休日労働義務について

上告人らに対しては、就業規則一四条二項「市長は業務の都合により特に必要な場合は、労務職員に対し、休日に勤務することを命じることができる」に基づいて出勤命令が発出された。

右一四条二項が、年末年始を休日と定めた同条一項の例外規定として、原告らの出勤を直ちに義務づけるのか、いいかえれば、右例外規定が、労働者の個別的労働契約の内容となりうるのかが、問われなければならない(なお、本件就業規則が、民間における就業規則と対置できることはいうまでもない)。

一、上告人らの個別的合意なき限り出勤義務はない。

既に述べたように、法内・法外を問わず、労働者が、労働力を売るということは、労働者の基本的自由であった。このような労働者の基本的自由は、「業務のために必要がある場合には」とか「業務の都合により特に必要な場合は」、休日労働をさせることができるといった一般的概括的規定によって制限することが許されるようなものではない。あくまでも個々の労働者の自由な意思を媒介として締結される休日出勤の労働契約によってのみ、労働者の出勤義務を負うものと解すべきであり、右のような一般的概括的規定は、労働者の自由な意思によって、超過労働をすることがあることを予知させるための注意規定にすぎないものである(青木宗也「法内超勤と残業業務」労働判例一七五号四四頁)。

もしくは、右のような一般的概括的超過労働義務規定では、使用者側の命令においてはじめて日時が具体化するので、労働条件明示の原則から、個別的労働契約の内容を規律・形成しているとは到底みることはできず、右規定に基づく命令は「超過労働の申込み」と同じ意味しかなく、労働者の同意をまって出勤義務が発生すると解すべきである(蓼沼謙一「労働時間・残業・交替制」労働法実務体系一一巻一三九頁)。

二、上告人らの休日労働拒否の自由

仮に、法定外休日について協約や就業規則の概括的・一般的な休日労働義務規定に基づき使用者の休日労働命令が発せられた時は休日労働義務が発生するという立場に立つとしても、労働者には拒否の自由が広汎に保障されねばならない。

前述したように労働者は基本的人権としての余暇権を有する。余暇権は、労働者の健康の為に肉体及び精神を安息にして休息をとる権利=休息権に契機をもつものであるが、それにとどまらず、社会生活において人たるに値する文化的な生活を営む為に休日等を積極的に余暇として利用しうるという内容を有する権利である。休日制度は、それを包む休息が単なる労働条件の問題から休息権の問題へ、更に余暇権の問題へと変遷していくに従って単なる労働力の維持培養の為の恩恵的な制度から労働者の健康の維持増進の為の制度へ更に文化的生活確保の為の制度へとより積極的に位置づけられてきた。

そして余暇権の下での労働者の休日制度とは、使用者が単に休日をとらせ、それを妨害してはならないという消極的なものから、使用者は、労働者が休日に余暇を享受することに協力しなければならないといった積極的な意味内容に発展してくる。

このことは、休日労働義務の解釈にも大きな影響を与えざるを得ない。

協約や就業規則の概括的・一般的な休日労働義務規定の下で労働義務が発生する場合があるとしても、それはあくまで休日であり、原則的には労働義務が存在しない日であるから、労働者としては、それは利用して余暇を享受しうる権利を有し使用者もそれに協力しなければならない。

従って使用者が休日労働を命じた個々の場合に休日労働義務が発生するか否かは、労働者の余暇権を一方的に奪うことを正当化しうる業務の必要性ないし公共性の存在の有無により決せられる。

その際前述した労働者の余暇権が基本時な労働者の人権として使用者もそれに協力すべき法律上ないしは道義上の義務があるという観点及び休日利用は労働者の全くの自由であるという観点からすれば、業務の必要性・公共性はかなりの程度のものでなくてならず拒否の自由は、広汎に認められるべきである。

(一) 業務の必要性・公共性

年次有給休暇権については、原則として労働者の請求した時季に与えなければならないが、事業の正常な運営に支障がある場合には使用者には時季変更権が付与されている。

事業の正常な運営に支障がある場合とは、単に繁忙であることのみでは足りないと一般に理解されている。

年休権は、本来労働義務が存在する日を労働者の請求によって労働義務を免除する制度であるから、使用者に一定の場合変更権が留保されることもやむをえない。

しかし、法定外休日は本来労働義務が存在せず、一定の場合、労働義務が発生する場合であるから、年休権の場合とは原則と例外が逆転している。

だから、使用者の業務の必要性・公共性は、年休権の時季変更権の場合以上のものが要請される。

すなわち、法定外休日であれ休日として制度化されている以上、特別例外的に休日労働をさせる為には、休日労働をしなければならない臨時的・突発的な業務が発生したことを要すると考えねばならない。

(この点では、労働者の同意なくして休日労働を命じうる労基法三三条一項の規定が参考に値する。

この条項は、法定内休日についても三六協定なくして超過労働を命じうる規定であるから本件の場合とパラレルに論ずることはできないが、労基法が労働者の同意なくして超過労働を命じうる場合として、どのような場合を想定しているかを知ることは本件の場合にも参考になると思われる。

この三三条一項は、通常予見不可能な災害の発生と、それによって労働者に超過労働をさせなければ人命や公共性を害するか、又は企業に多大な損害を与える可能性の二つを要件としている。

これからみても、労基法の精神は本件の場合にも、程度は三三条一項より軽いであろうが、予見不可能な臨時的・突発的な業務の発生と、休日労働をさせなければ公共性や業務に多大の影響が及ぶ危険性の二つの要求していると考えられる。)

ところで、注意しなければならないのは、業務の必要性公共性をこの場合考慮するとしても、それはあくまで、個々の労働者の拒否権の正当性という観点からであるから、その必要性は個々の労働者の職場においてのそれが個別的に判断されねばならないということであって、一般的に企業継続の必要性と混同してはならないということである。原判決はこのことを混同し、業務の必要性を一般的抽象的に認めているがこれは誤りである。

(二) 拒否理由の合理性

労働者側の拒否理由は、原則として問題にならないと考えるべきである。休日をどのように利用するかは労働者の全くの自由である。

又、余暇権として休日をとらえる場合、精神的肉体的疲労を回復する為、休息するだけでなく積極的な余暇利用を権利として保護しているものであるから、そこでは休息のみならず種々の余暇活動の自由が積極的に位置づけられてくる。

ところで、余暇利用が自由ということは余暇の利用の仕方がどのようなものであれ客観的には価値的な序列を判断しえないことを意味する。

いかなる余暇利用方法が価値あるかは、個々人の主体的判断の領域に属する事柄だからである。

家で寝てテレビを見ていようと、ゴルフに行こうと、サークル活動に参加しようと、それは個々人にとってはまさにそれが余暇利用として最適との判断に立った上でのことであり、他人がとやかく言えることではないのである。

だから拒否理由の合理性について第三者が判断することは不可能であり許されない。

仮に拒否の自由の有否について拒否理由の合理性の判断も必要だとしても、これを重視すべきではないと考えるべきである。

第五、小結

原判決は、法内超過労働、法定外休日労働を法外超過労働、法定内休日労働と別異に解釈した。しかし、憲法二五条、憲法一三条および同二七条二項を基本にそれを受けた労基法の休日制度を解釈する限り、法内・法外の超過労働および法定内・法定外休日とも、労働者の基本的な権利と解すべきであり、法内超過労働・法定外休日の労働義務を労働者の個別的同意なくして一般的概括的規定をもって命じうると解することは憲法・労基法違反の判断というべきである。

仮りに、一般的概括的規定によって、法内超過労働、法定外休日労働義務が発生するとしても、労働者には拒否の自由があり、それが濫用にわたる場合だけに労働の義務を認めるべきで、まして、労働者から就労しえない疎明を果たす義務を課すべきではない。この点についても原判決には、憲法・労基法違反があるというべきである。

第二点 本件就業規則一四条二項の解釈に関する判断の判例違反および理由不備

第一、問題の所在

原判決は、本件就業規則一四条二項の解釈について「北九州市当局は旧五市合併後の昭和三八年一〇月頃、北九州市職員のうち地公法五七条にいう単純な労務に雇用される者の就業規則案を市職労に提示し、市職労と種々折衝を重ねたうえ、昭和三九年五月二五日本件就業規則を定めたものであって、前叙のとおり、地方公共団体の長が労務職員の勤務条件につき就業規則を定めることができ、法規範としての効力が付与されているものである以上、旧五市の労務職員との勤務関係を比較した場合、勤務条件の規定に多少の差異がみられるものの、本件就業規則が北九州市そのものの条例、労働協約及び労基法に違反しているものではないから、本件就業規則の規定中旧五市の条例に比較し労務職員の勤務条件に劣る部分が無効である旨の右主張は採用し難い」と認定したが、就業規則を、労働者に一方的に不利益変更することのできないことは、後に述べる最高裁判例の述べるところであり、且つ、右就業規則制定の事実経過によっても到底そのような解釈は採れないもので理由不備の違法がある。

以下、その理由を述べる。

第二、旧五市における年末年始の休日規定と年末出勤の実態

一、年末年始の休日規定について

旧門司、戸畑、若松および小倉戸畑両市共立衛生施設組合(現在の西港清掃工場、以下「西港」という。)は、条例に、旧八幡は就業規則に旧小倉は労働協約にそれぞれ年末年始の休日に関する規定がある。

そして、右のうち門司、戸畑、若松、八幡は、いずれも「勤務を要しない日」と定めている(但し、戸畑を除いて、一月一日は「休日」である。)他方で、「事務または業務の都合」(門司)とか「業務の都合」(八幡)とか、あるいは「臨時必要ある場合」(戸畑)には、出勤を求めることができる旨の包括的例外規定があるが、その中にあって若松の場合は、右例外としての出勤規定は全く存在しないのであった。

西港の場合は、年末年始(但し、一月一日は「休日」である)は特別休暇として定められ、「業務の都合」とかの例外の規定はない。但し、右休暇の承認権が任命権者にあるため(一八条)、不承認という形で出勤を義務づけることが可能と思われる。

小倉の場合も、労働協約で特別休暇と定められ、年末年始に勤務した者に対しては交替休暇を与える(二二条五項)ことと定められ休日出勤については、休暇の文言は含まれていないものの職員の同意を要すると定められている(三四条)。そして、小倉の場合は労使の合意に基づいて年末出勤はなされていたのである。

二、年末出勤の実態

では、若松および小倉を除く他の清掃事務所が、五市合併前である昭和三七年までの年末清掃の出勤を、包括的例外規定にもとづいて出勤命令やあるいは特別休暇の不承認(西港の場合)という方法で職員に求めたかというと、そのようなことは全くなかったのである。

一方的に年末年始の出勤を命じる根拠規定のない若松および小倉はもちろん、他の旧市においても、年末出勤にあたっては、清掃事務所ごとに勤務時間、超勤手当や物品支給などの労働条件についてそれぞれ団体交渉をもち、労使の合意をみて、それに基づいて各清掃事務所職員は出勤していたのである。

このような実態は、五市合併以前だけにとどまらず、その後も本件の問題年度である昭和四四年を除いて現在も続いているのである。

更に、年末出勤が団体交渉によって決定されているのは、何も清掃事業局だけの特殊現象でもなく、次に述べるとおり北九州市全体の現象でもある。

第三、北九州市全体における年末年始出勤の実態

一、労使交渉の必要性と意義

毎年一月一日、二日、三日、一二月二九日、三〇日および三一日は上告人らのような単純労務職員についてはもちろん、病院局職員、水道局職員、そして一般職員すべての休日と定められている。

ところが、一方では病院事業および、清掃事業など年末年始期間においても恒常的に継続せねばならない業務があるのも事実である。とはいえ、右恒常的業務を継続する責任および義務が、当該業務に携わる職員に、当然にあるわけではない。かえって、年末年始期間においても、恒常的に業務を継続する必要があることを前提として関係職員に休日を保障した以上、北九州市当局側が責任をもって、代替措置をとって職員の休日を保障しなければならない。

しかし、現実には、右年末年始期間も継続する必要のある業務は、交通局を除く全職員の約二〇パーセント近くの関係職員の出勤という犠牲によってまかなわれている実情である。確かに、日常的に業務に携わっている職員が、年末年始期間も出勤して就業することに業務の一貫した円滑な継続性という点などから合理的ではある。しかし、明確に年末年始を休日と定めておきながら、現実には業務継続の必要性と合理性から一方的に休日を剥奪することは当該職員に対し詐欺的であり許されることではない。

北九州市においては(全国の地方自治体も同様)、年末年始の出勤については、当局側の必要性と、休日権の保障の調和点として、労働組合との団体交渉が、常にもたれ、労働組合としても全体の奉仕者そして住民サービスの観点から、年末年始には休日権を保障しながらできるだけ出勤していくとの前提のもとに年末年始の勤務体制を含む労働条件を煮つめ、当局と合意の上で各組合員に出勤を指示してきたのである。

二、労使交渉の実態

北九州市には、大別して上告人らの所属する北九州市職員労働組合(略称「北九市職労」)と北九州市職員労働組合連合会(略称「市労連」)の二組合があり、北九市職労には更に、地公労法上のいわゆる組織内組織として単純労務職員で構成された現業評議会(略称「現評」)、病院局職員で構成された病院評議会(略称「病院評」)および水道局職員で構成された水道評議会(略称「水道評」)等の組合がある。

五市合併(昭和三八年)以来、年末年始が近づくと、毎年北九市職労そして各評議会は各部局に対し要求書を提出し、年末直前まで勢力的に団体交渉を重ねていく。

特に、年末年始出勤にかかわる職員の多い清掃事業局の交渉を基本的なベースにし、ここで成立した年末年始の各種手当に対する念書を基本にして、それぞれの部局で交渉がまとめあげられていったのである。

また、年末年始出勤の団体交渉は、昭和三八年の五市合併以来のことではなく、それ以前の旧五市においてもそれぞれ行われていたのである。

以上のとおり、従来北九州市における年末年始の出勤は、労使の交渉による合意に基づいてなされており、職務命令が(本件の場合を除いて)発出されたことはないのである。

第四、本件就業規則の制定経過

昭和三八年一〇月九日市当局は、北九市職労に対し、本件就業規則案(甲第六一号証の二)を提案した。

組合は、就業規則の一方的制定には反対し、基本的な労働条件は労働協約で決定すべきであるとの態度を示した。

昭和三九年四月一四日団体交渉で確認書(乙第一八号証)が交わされた。その意味は、今後の交渉の「進め方」の一致点を確認したもの(甲第五三号証四三六頁)であり、一致点とは就業規則によって、当時の労働条件の変更をしないということを、第一項に「今回の就業規則の交渉については、現状確認のためのものである」としてうたったのである。

そして、右確認書に基づいて、就業規則一四条二項も、提案時「必要と認める場合は」とあったのを「特に」を挿入して「特に必要と認める場合は」と改めたのであった。

右訂正の理由は、年末出勤が労使の団体交渉によって合意決定されていた実態―現状を前提に、法定休日における出勤義務を定めた労基法三三条一項に準じさせて休日の権利を保障することにあり、組合がその旨主張し市当局が同意をしたものであった(原審松尾証言六一ないし六四項)。

本件就業規則は、一部手直しはさせたものの、結局不充分なまま昭和三九年五月二五日一方的に制定されてしまった。

第五、就業規則一四条二項の解釈上、年末出勤の根拠規定とはならない。

原判決は、就業規則一四条二項について、「業務の都合により特に必要な場合」には、毎年の定期的な繁忙時である年末清掃業務も該当し、「特に必要な場合」として限定している趣旨は、できるだけ休日の趣旨を生かしうるよう時間的並びに人員的にも不必要な人員を年末清掃にかり出さないという意味合いをもつものと解釈した。

しかし、右解釈は全くの独断としかいいようがない。まず、「特に必要な場合」に限定している趣旨であるが、過去から現在に至るまで、当局側が、自ら、右限定に従って、時間及び人員を制限して年末清掃業務の実施を図ったことは一度たりともない。特に、人員制限については全くないのである。しかも、就業規則制定の当局提案(甲第六一号証の二)には、もともと右限定はなく、当局としても、そのような限定を考えたことはないのである。

次に、重視すべきことは、就業規則制定の際の当局提案には右にも述べたように「特に必要な場合」という限定はなく、右限定は、組合の意見を取り入れて挿入訂正されたというゆるぎない事実の存在である。「特に必要な場合」の解釈を右挿入訂正の経過を抜きにしてなすことは、法解釈の基本的方法論を誤ったものである。

既に述べたとおり、右「特に必要な場合」の限定は、年末清掃が労使の合意に基づいて実施されていた実態に合わせて、一方的な出勤命令による年末清掃を排除する為に、組合が提案をし、当局側が受け入れたものなのである。

組合は、法定外休日の例外的出勤規定を定めるにつき、従来通り法定外休日に法定休日と同等の保障を確認するため「特に必要な場合」との限定をつけ、法定休日の例外的出勤規定である労基法三三条一項の要件(但し、行政官庁の許可不要)に準じさせたのである。

裁判所には、年末年始の休日を法定休日と同様の定めにすることは、公務員の意思如何によって年末清掃が左右され市民生活に重大な支障をもたらすので、認め難いとする理屈ぬきの価値判断が存するかも知れない。

しかしながら、労使の間で、法定外休日を法定休日と同様に扱う旨定めることは、何ら公序良俗にも強行法規にも反するものではない。

むしろ、学説の多くは法定外休日と法定休日の区別をすべきではないとし、世界的動向としても休日権をより強く保障していく方向にある。

就業規則の定める単純労務職員の年末年始の休日は、法定外休日であっても法定休日と同様に定められたものである。

従って、労使の合意で定められた就業規則一四条二項の包括的例外規定は年末出勤の職務命令の根拠足りえないことは以上述べたところから明白である。

第六、仮に、解釈上、就業規則一四条二項が年末出勤の根拠規定と解されても、慣行或いは条例、労協、就業規則によって定められていた年末出勤の労働条件を一方的に不利益変更するものであるから、その限り無効である。

一、就業規則一四条二項は、従来の年末出勤義務を一方的に不利益変更するものである。

〈1〉 若松の場合

旧若松市の場合は、条例によって年末年始は「勤務を要しない日」と定められ、しかも、出勤についての例外規定はどこにもない。従って、年末年始の出勤は労使の「合意」に基づく以外の根拠はなかったのである。

従って、旧若松市のあとの現若松清掃事務所の職員について、就業規則によって、一方的に合意を必要とせず出勤を命じうるとすれば不利益変更になることはいうまでもない。

〈2〉 西港の場合

西港の場合は、条例によって年末年始は特別休暇と定められ、しかも、事前に承認されている特別休暇である。従って、「合意」に基づかずに年末出勤をさせる場合は、任命権者が事前に承認を撤回するという形式をとることになる。

しかし、現実には、承認が撤回されることはなく、特別休暇中の出勤として「合意」に基づいていたものである。

〈3〉 小倉の場合

小倉の場合は、労協によって、年末年始は特別休暇となっているものの休日出勤については職員の「同意」を要件としていたため、年末清掃についても労使の「合意」に基いて実施されていた。

〈4〉 門司、戸畑の場合

門司、戸畑の場合は、条例で「勤務を要しない日」として日曜日(法定休日)と区別することなく定め、包括的例外規定はあっても年末清掃は労使の「合意」に基いて実施されていた。

〈5〉 八幡の場合

八幡の場合も、就業規則であるが日曜日(法定休日)と区別することなく「勤務を要しない日」と定め、包括的例外規定はあったが、年末清掃は労使の「合意」に基づいて実施されていた。

従って、就業規則一四条二項は、あるいは新たな出勤義務を生ぜしめたり(若松)、法形式を変更して一方的出勤命令を発出しやすくしたり(西港)、同意権を剥奪したり(小倉)、法定休日と同様の保障を剥奪したり(門司、戸畑、八幡)するものであって、不利益変更になることはいうまでもない。

また、当局は、旧市時代から、若松、小倉を除いて、年末清掃の為に、特別休暇の承認を撤回したり、包括的例外規定に基づく職務命令の発出をしたようなことは一度もなく、かえって法定休日(日曜日)と同様の保障をしている趣旨からも、当局の方から、毎年、年末清掃についての「合意」取り付けの交際を求めてきていたもので、この労使の「合意」が出勤命令の根拠たるべきことは慣習法としても十分に規範性を有するのである。

してみると、本件就業規則一四条二項が年末清掃についての出勤命令を発しうる規定とするならば、右慣習法による労働条件をも一方的に変更するものといわざるを得ない。

二、休日出勤の条件は一方的に変更できない。

休日は、労基法一五条一項の定める労働条件明示義務に該当する労働条件であり、労働契約の内容となるべき労働条件でもあって、使用者による一方的決定・変更の許されない労働条件であることは明白である。そして、この項は、最高裁大法廷の「秋北バス事件」判決(昭和四〇年(オ)第一四五号・昭和四三年一二月二五日判決)の認めるところである。

従って、労使の合意なく定められた一四条二項は、少なくとも年末清掃の出勤義務に及ぶ範囲については無効である。

第七、小結

原判決は、こともなげに本件法定外休日労働義務の根拠を就業規則一四条二項に求めた。しかし、右条項は、制定経過からして、また従来の旧五市時代の定めおよび慣行の実態からして、原判決の如く一方的な職務命令によって休日労働業務を発生せしめる根拠とはなりえないのである。

この点について、原判決には重大な理由不備および最高裁の判例違反の違法が存するといわざるをえない。

第三点 地方公営企業労働関係法一一条一項の違憲性に関する判断の憲法違反(以下、略)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例